自己研鑽する為の唯一の心構え

突然だが、皆さんは日々自己研鑽を励んでいるだろうか?

もちろん、毎日やっている方もいれば、時々の方、はたまた特にやっていないという方もいるだろう。自分も毎日では無いにしろ、なるべく新しい発見をしようと心掛けているし、日々の行動を振り返って次に繋げる意識を持っている。

最近、色々な人と知り合うようになり、会話等を重ねていくにつれ、自己研鑽する人とそうで無い人の差が何となく見えてきたので、それをここでシェアしたいと思う。

「スキルアップしたいけど、なかなかモチベーションが上がらない人」にとって参考になればと思っている。

コンフォートゾーンからの脱脚

自己研鑽する人は、一言で言えば、コンフォートゾーン(快適だと感じる空間)から一歩出ようと思う意思があるのではないかと考える。「コンフォートゾーン」は大抵のスキルアップ系セミナーとかで例に挙げられ、使い古された例かもしれないが、有効な例えだと思う。人は本能的に安定を好むし、可能ならずっと「コンフォートゾーン」に居たいし、さらに外部からそのコンフォートゾーンが侵されると感じた時は、本能的に「防衛反応」を示すのも、人間として普通の反応だと考えられる。

しかし、コンフォートゾーンの中には新しい発見や知見を得ることが難しい。なぜならば、その中は殆どが予定調和の集まりで、人はそこの中に居ることを快適に感じたり、安心感を得たりするからだ。したがって、新しい知見を得るためには、今現在の自身のコンフォートゾーンから脱脚しなければならない。

知らぬ間にコンフォートゾーンになっている

また、こんな例もある。とあるスキルアップのために、仲間と一緒に研鑽しようとし、あるコミュニティに入ってみたとしよう。この時は本人にとってのコンフォートゾーンから一歩踏み出したわけなので、この行動自体素晴らしいことである。

そしてそこは、初心者にも優しいことを主眼に置いたコミュニティで、仲間の数も多い。

とりあえずそこでは自分自身のノウハウを発表し、みんなから褒めてもらえる。この環境は本当の初心者にとって、ものすごく重要な場所であり、これはこれで大事だと思う。

しかし、いくつかの点で少しずつ問題が起きてくる

  • 初心者と熟練者の差が埋まりにくい
  • 熟練者が初心者にばかり目が行き、講釈垂れるだけの状態になる
  • 居続けることが目的となりがち

特に最後の例だと、大学のサークルで、卒業したにも関わらずしょっちゅう顔出すOB・OGに近いと思っている。何故ならば、自分に気を使ってくれる後輩達が居る環境はある意味「快適」だと感じるからだ。

そして、そのまま入り浸ると言う事は、自己研鑽を忘れ、周りから褒め称えられるのみの状態が続き、そこが新しいコンフォートゾーンになっていくのである。

まとめ

自己研鑽を心がけるためには、コンフォートゾーンから脱していくことが重要であることをお伝えした。尚、コンフォートゾーンは次のような性質がある

  • コンフォートゾーンを死守したいという気持ちは本能である
  • コンフォートゾーンはいつのまにか出来上がっている
  • コンフォートゾーンが全く無い状態はそれはそれで不健全

このことから、人は定期的にコンフォートゾーンから脱するため、生活習慣を変えたり、周りの状況を変えたりなど、一歩踏み出す行動をとり続けた方がよいと感じるのである。

「学校はいつか卒業するもの」であり、「会社もいつか退社するもの」である。

自己スキルを上げていくために、現状を振り返り、自分のコンフォートゾーンのちょっと外が何であるかを考えながら、踏み出していくことで、成長のサイクルを生み出せると自分は信じている。

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1件の返信

  1. しおん より:

    10年以上昔に読み、そこから同じ年ごろの若者たちとの思考の乖離が強くなった哲学書と同じことが書いてあったのでびっくりです。→自己研鑽

    新しい一歩を踏み出すことで広がった世界に好奇心で歩める人か、
    怖がって安全な世界に残る人なのか。その差によってもしかしたら人間性や器の広さも変わってくるのかもしれませんねぇ…

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